2014年12月27日土曜日

道義的判断


以前国際紛争について書いた時に意味不明だった「懐疑主義者にとっては道義的判断には意味がない。」の意味が最近になって漸く分かるようになって来た。懐疑主義者は自分の感覚が全てで他のことが眼中に無いらしい。「もしかしたらそうかも知れない」或いは「絶対にそうに違い無い」取り敢えず自分に不愉快な(自分を恐怖させる)事柄を消し去るべく、自分が安心納得するまで手段を講じるのが懐疑主義者なのだ。有る意味で、懐疑主義者は他者の意見や客観的事実を無視した行動が多くて当たり前だ。この感覚第一主義の開き直りが「国際紛争」の著書の中で最も不可解な点だったのだが、今になって見れば著者が思い切りユダヤ系でコテコテの懐疑主義者だったのだから著者が分からない筈が無い。但し読み手には意味不明だった。

これまた最近、フリーライターで大学講師を務めている日本人に国際金融資本による世界覇権とSTAP細胞の隠蔽について、プロの間でどういう了解があるのか尋ねた所、直接お返事を頂いた訳では無いけれども、お上を批判したり日本の現状をえぐったりしたらアカ(非国民)だね、と言う反応が返って来た。それをやって権力者から消されたくなければやらないこと、ということで、良い教訓を頂いた。懐疑主義者が何を危険と感じて何を消すのか分かっていたら近付かない。簡単な事なのに道義的判断を持ち出して懐疑主義者を攻撃したりしてしまい。伝統的にも将来的にも覇権者が懐疑主義であり続ける限り、道義的判断が意味を持つことは無いのだから、覚悟して道義的思考を避けなければいけないと思った。神のまにまに。m(_ _)m

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